フォーク・キルアウェートの戦い

 全ての始まりなんて、きっとなくて。
 ぼくは、お兄ちゃんが寝ている寝室を抜け出して、階段を降りる。
「フォークくん、お勉強?」
 テーブルに座ってココアを飲んでいるフォアさんがいて、ちょっとびっくりした。
「あ、えっと、息抜きです」
「外はシーザライズがいるから、出ても大丈夫だよ」
 厚着のぼくを見て、見抜かれていそうな気がしてぼくは苦笑した。
「それじゃあ、行ってきます」
「早めに戻るんだよ」
 と、応援されてしまった。
 外は、思ったより寒くて。
「おう、どうかしたか……いや、わかっているけど」
 と、シーザライズさんが目の前にいた。
「少し長い話になるんですけれども、聞いてくれますか?」
「ああ。でもその前に、勉強は大丈夫か?」
「う……で、でもその前に。ぼく、戦えるようになりたいんです!」
「料理してるの見てたら才能はありそうだが……まあ、そういうと思ったよ」
 そう言うと、シーザライズさんはぽいっと何かをよこした。
「戦闘ならリタルのほうがいい。ってことで、呼んでおいた。俺はツキの護衛に戻るから、そっちの相手してやってくれ」
 ひらひらと手を振りながら、シーザライズさんはぴょんっと跳んで屋根の上に行ってしまった。
「というわけで、私が護身術をお教えしますね」
 にこっと、細目で黒い、闇に溶けそうな服装をしたリタルさんがいた。
「いつからいたんですか?」
「最初から。じゃないと、暗殺者なんてやってられないですよ」
 にっこりとした笑顔は、けれども気配がなかった。
 シーザライズさんから貰った木の短刀は、握り心地が良かった。
「自分の身は自分で守りたいんです。お兄ちゃんのように、幸運に守られてるわけでもないし。もしもの時のために、ぼくは――戦えるようになりたい」
「じゃあ、まずは体力作りから――といきたいところですが、時間がありません。ナイフの使い方からはじめましょう」
 すっと、気付いた時には背後にリタルさんがいた。
 そして、ナイフを持つ手を握りしめている。
 触られた瞬間、違和感を覚えたけれども、それはすぐにかき消える。
「では、レッスンをはじめましょう」
 ――結論から言えば。
 ――護衛技術から。
「赤のキルストゥの守護者……フォークくんは、やっぱりそれですね」
 数回、斬りあった――とはいえ木製の刃だが――だけで、リタルさんは攻撃の手を休めた。
「あ、あれ?」
「フォークくん、何度殺そうとしましたか?」
「ち、違うよ、そんな気は――」
「すみません、意地悪なことを言いましたね。わかっていますよ」
 ぽん、と肩に手を置かれる。
「急所狙い、自然とそうなってしまうのですね……」
 言われて、ぼくは自分の手を見る。
 黒い血で汚れてる――そんな気がすると、ぶるりと震えが走った。
「大丈夫です。フォークくん、きみは人を殺す手ではないのですよ」
 と、温かい手のひらが、ぼくの手をくるむ。
「本当に人を殺す手は、こういう手ですから」
 覚えておきなさい。
 そう言われた気がして、ぼくは目を丸くした。
「きみの手は、その技術は、魔――『神』を滅するためにある。そして、きっと言わなくてもわかるんでしょうけれども……」
 と、リタルさんは頬をかきながら、続ける。
「『神』は怨念が人の形を取ったもの。星の光を受けて」
「星の、光?」
「前に話したことがあったかは覚えていませんが、星と怨念が偶然繋がる時に、『神』として死者は生まれ変わります」
「その人は、幸せなのかな……」
「それはわかりません。ですが――『神』は、元々怨念。その身の上を癒す祝詞と共に、急所を穿てば浄化できます」
「浄化?」
「シーザライズによると、物も『神』になることがあるようですから……でも、不測の事態のために、私たちがいます」
 特に、シーザライズは強力です、とリタルさんは付け加えた。
「彼がいないときは、極力出歩かないようにしてもらえると助かります。対処できないので」
「……ぼく、守られてばかりでいいんですか?」
「違いますよ。これは私たちの、贖罪です」
 否定した声音は、悲哀に満ちていた。
「家に戻りましょうか。フォークくんもそろそろ休んだほうが良いですよ」
「は、はい」
 贖罪。
 きっと、レリアって人を処刑へ導いたことなんだと思う。
 でもぼくはその人じゃない。
 フォーク・キルアウェートだ。
 だからだろうか。
 ちょっと、レリアって子に、嫉妬してしまったのは。



「うぅー、勉強わかんないよー」
「ふっ、ここは廊下で徒競走をするのがベストだな」
「あなた達は、相変わらずね……」
 もう受験も近いぼくとクッキー、そしてルル。
 夕方に近い時間の中、三人で教室に残っていた。
「ところで、お前誘拐されたんだろ? いいのかここにいて」
 それを言ったら、クッキーも残ってていいのか、と問いたくなる。
 ぼくは受験勉強、ルルは推薦で合格、クッキーは就職だ。
「就職先決まってるのに、勉強赤点祭りだからクッキーは駄目なんだよ」
「受験勉強もろくに解けてないフォークに言われてもぜんっぜん問題ね―」
「ほらほら、二人とも。仲良く仲良く、ね?」
 ルルに言われて、ぼくたちは机を見る。
 問題集が、赤いばってん祭りだった。
「お前、料理できて腕もいいのに、勉強からっきしだよな」
「将来は立派な料理人になるの! べ、勉強はこれから本気出す!」
 だめなフラグを胸を張って出すと、なぜかルルに笑われた。
「フォーク、夢があっていいね」
「うん!」
 軍では相変わらずお兄ちゃんが働いている。
 でも、軍内の事件があって、親友が違うところへ行ってしまったといって、ちょっと寂しそうだった。
 アイスさんではないらしい。
「それじゃあ、続きをはじめましょう」
 ぱん、と手を鳴らされて、ぼくたちは意識を勉強に向けた。



「お父さんがね、もう大丈夫だからって、護衛をつけてくれてるの」
「あー、誘拐されたんだっけ? お前、よくさらわれるよな」
 クッキーがロビーで不穏なことを口にしていた。
「今度の人は、すごい人だから大丈夫だって。確か名前は――」
「キル――キルアウェート様、ルル様、そして……」
「クシニキルだ」
「クシニキル様。何事もなく」
「あ、タチアナさん」
 たたたとルルが彼女の隣に立つ。
「この子が、わたしの新しい護衛の人よ」
「……これはこれは、……秘密兵器の投入か?」
 ぼそりとクッキーが警戒する。
「大丈夫だよ。それに、もうすぐぼくたち卒業しちゃうじゃん。なにもないんだから、なにも起こらないよ」
 と言いつつも、緊張はする。
「ルル様。家までお送りいたします」
「ええ、お願いね」
 と、玄関で靴を履き替えてから、二人の姿はあっという間に消えていく。
「で、クッキー。実は」
「あー知ってる知ってる。リタルさんからも話は聞いた。お前よくあんな暗殺者と一緒にいられるな」
「そんなに怖い人じゃないよ、リタルさん」
「一般人にはそうなのか、キル……の血がそうさせるのか。まあ、あの人もオッケーってことで、車で迎えに来てくれてるから、行こうか」
「うん」
 鞄の中には、昨日貰ったナイフが入っている。
 といっても木製で、当たりどころさえ間違えなければ死ぬことはない。らしい。
「しっかし、フォークに隠された力、か。気になるな、うっしっし」
「そんないいもんじゃないよ」
 ぼくが告げると、クッキーはいやいや、と外の夕日を浴びながら笑う。
「軍に入ってもいいんじゃないか? 食堂で働いて、兄と一緒の職場ならいろいろ楽だろ」
「うーん、いろいろありそうだからなぁ……」
 ぼくはクッキーの語った将来に、少し陰りを見せる。
「やっぱ、軍人は苦手か」
「うん……どうしても、ぼくは好きになれないみたい」
「まあ、親の仇だもんな。例え異国だろうが。ま、無理すんなよ」
 と話をしていたら、黒い車が目の前に止まった。
「よ。迎えに来たぜ」
「じゃあ、後部座席に乗ろうぜ」
 クッキーの言う通り、後部座席に座らせてもらう。
「よろしくお願いします」
「んにゃ。……キルアウェート、覚悟しとけよ」
「あ、フォーク、この人が運転してる時は喋るなよ」
 と言った刹那、肯定の言葉が走る。
「乗り物運転するの苦手でな。すまん」
 そんなわけで。
 リタルさんが信頼している人の運転は、けっこう危なっかしかった。



 陽が落ちた、世界。
 そこで、ぼくは木のナイフを持って、アダマンタイトと名乗ったクッキーの保護者さんと向かい合っていた。
「打撲したり、運が悪けりゃ死ぬかもしれないが、覚悟はできてると思っていいな?」
「は、はい」
 広い農家の、畑の側に、ぼくらは立っていた。
 どうしてこうなったのか、やっぱりわからない。
「死んでも恨むなよ」
 なんか、アダマンタイトさんの目が怖い。
 まるで死と血の中を駆け抜けて生きてきたような、シーザライズさんを思い浮かべる、冷徹な目だ。
「いや、死ぬほどは……」
 とクッキーが横槍を入れてくるけど、お互いに無視。
 手を抜いたら殺される。
 殺気、なのだろう。
 よく知らない人に、殺されるほどの殺意を向けられるなんて、どうしてだろう。
「……怯まない、か。やっぱり、頭おかしいんじゃないか、キルアウェート」
「え?」
「あのな。ふつうは形のある殺気なんて向けられたら、足震えたり、混乱するもんだ。お前はそれがない。それが当たり前だと思ってる」
「あ……そう、だ」
「リタルの言ってた通りか。自分に向けられた殺意なら、きっと取り乱すことはないと。それが魔祓いの赤ってわけか」
 言うが早いか、アダマンタイトさんはぼくの理解より速く、地を蹴っていた。
 肉薄するのは素手の彼。
 身体は自然と突進を避けるため、片足を軸に全身が半回転した。
 そして自然と、ナイフの柄をその背に振り下ろす。
 が、手応えは宙を切る。
「はっ!」
 アダマンタイトさんの足払いで、ぼくは自然と綺麗な星々を見上げるはめになった。
「え?」
「ふむ。これが素人の反応とは……やっぱり、キルストゥの赤は天然の殺人スキル持ってそうだな」
「フォーク、大丈夫かぁ?」
 と、各々の感想を言われて、呆けてた意識が蘇る。
「あ、え?」
「あの速さの突進を避けたんだ。とっさに足崩させてもらったが……これが一晩でできるなんて、ありえない」
 きっぱりと、アダマンタイトさんが言い切った。
「体育の成績はよいとか聞いたが、それ以上の才能だ。鍛えがいがあるな」
「え」
「料理人より、魔祓い目指したほうが良いと思うが、まあ戦闘だとリタルが本気出してしまいそうで怖いっつってたんだ」
「リタルさんが?」
「今すぐって話じゃない。しばらくオレとクシニキルの二人で相手してやるから、待ってな」
「え? アダマンタイトさん、フォーク相手はさすがに実力の開きが……」
「すぐに追いついてくる。その才能、開花させたほうが、自分のためだ。なあ、フォークくん?」
 クッキーの保護者の言うことは、そうだと思う。
 ぼくにはよく知らないところで、皆頑張ってるし、守られてばかりじゃなにかあった時に足手まとい、なんて嫌だ。
 その心を見抜いたのだろう。
 この人、けっこう性格悪そう。
 でも、実力は本当だと思った。
 だからぼくは立ち上がる。
 強くなりたい。
 フォアさんや、シーザライズさんたちに頼らなくてもいいくらい。
 は、さすがに言い過ぎだけれども。
 あのクッキーでさえ、前を向けたのだ。
 なら、ぼくにできないはずがない。
「お願いします。ぼくを、鍛えてください」
「いや、まずフォークは勉強を頑張れ……」
「いやいいさ。勉強も大事だが、身を守ることを知るのも大事だ。まあ、素人なんだ、という意識は持ってろ」
「褒めてくれてたのに、ですか?」
「あの程度予測できなくて、大口たたけるか?」
「う……」
「身に覚えがあるなら、まずは、基本の動きからしっかり叩き込んでやる。おいクシニキル、お前もだ」
「げ、ハードじゃないっすか」
「仲間と一緒に鍛えるほうが、なにかといい」
「殺し合いさせるとか?」
「その発想はなかった」
「クッキー! 余計なこと言わないで!」
 なんか、不穏な空気になってきた。
 お家が恋しい。
 そんな感じで、ぼくとクッキーの武術の指導が始まるのだった。



 今夜の宿題が終わり、家事も済む。
 寝室に戻ると、お兄ちゃんはお仕事で、フォアさんは下で帰りを待っててくれてるので今は一人きりだ。
「うぅ……身体が、痛い」
 筋力とか、体力アップとか、そういう名目でクッキーと競いながら畑を走り回ったり。
 実践式に、クッキーと組み手をしたり。
 学校の授業後、アダマンタイトさんに連れされられる毎日が続いていた。
 なんだか、身体が今更成長し始めた気がする。
 軍の司令部に行くことも――というか、暇もないので、鍛えられていく身体に、ぼくは思考が変わっていくのを感じた。
「一人でも、戦える、のかな」
 考えてもいなかった強い自分。
 まだまだ本物の軍人さんや、シーザライズさんみたいな人たちには及ばないだろうけれども。
 確実に、どこを狙えば良いのか、とか、そういう知識や行動が取れるようになってきた。
「明日は久しぶりに休みだ―」
 ぼて、とベッドに埋もれる。
 ふと、視線を置物に向ける。
「ふふふ、ぼくがお兄ちゃんを守れる日が来るかもしれない」
 誇らしげに独り言を呟いてみる。
 キルストゥでは、魔。一般的には『神』。
 そういう存在に対抗できる祝詞とか、キルストゥなら知ってていい情報も教えてもらった。
 実際に会えばわかるだろうが、とも。
 そして、彼ら、彼女らも人と同じ。ということも。
「味方には軍人のスピードスターさんや、他にも何人かいるらしい」
 そういう人は、浄化しちゃだめだ、と口酸っぱく言われた。
「外にいる時は常に気配に気を配ること。ぼくは甘いって言われちゃった」
 でも、すぐできるようになるだろう、なんて言われてしまった。
「そんな小説みたいなこと、できるかな」
 気配と言われても、というのが本音だ。
「うーん、ふあぁあ。しっかし、疲れたー」
 シーツを引き寄せて、ぼくは瞼を閉じる。
「はー。お休みなさい……」
 ぎゅっと目をつむると、そのまま意識が消えうえせていった。



 明るい、障子で仕切られた部屋の中、布団に静かに横たわる老人の姿があった。
 ぼくは、それが誰か知っていた。
 けどそれはありえない。
 ぴーぴーと、木々で彩られた庭から鳥が鳴く。
「今日は、いい日、だな」
 言われて、ぼくは枯れ葉のような、しゃがれた声のその人を見た。
 皺が刻まれた姿は、弱々しく、かつての面影がなかった。
「今まで、付き合ってくれてありがとうな、――――」
 聞き慣れた声が、帯刀している以外は違って縁側にいた。
「――も、感謝してる。あいつに、会えなかったのが心残りだけど……さ」
「そろそろ、か」
「ああ。なんだか、こんな昼間なのに、フォークが――おれを連れ出してくれた鳥が、呼んでる」
「なら、行って来い。きっと、待ってるから」
 彼の目に涙が浮かんでいた。
「ああ、遠く。本当に、遠くまで、来た――」
「フォークも、喜んでくれるぞ。でも、若い姿の時のほうが、見慣れてて今の姿見たら、びっくりするだろうな」
「そうだな、そう、だ……」
 閉じゆく瞼を見つめながら、帯刀している彼は、ぼくを見た。
「……鳥、か。たしかに、フォークは鳥のように、空駆け巡ってたな――」
 眩しい太陽が、一人の老人の終わりを、導いていた。
 いい日だ。
 納得する。
 ――でもこれは、ずっとずーと遠い、未来への既視感。
 いつか、訪れる終わりの一つ。
 ぼくたちは、一つ一つ、積み重ねて終わらせていくのだから。



「あれ……寝てた、のかな」
 ぼくは目を開くと、寝室にいた。
 お兄ちゃんがいつものベッドで寝ている。
 窓の外も夜の帳が落ちていて、あの夢の風景とは似つかわしくなかった。
 あれは、でも。
「なんであんな夢、見たんだろう……」
 はっきりと覚えている。
 でも、そんなことより大事なことがある。
「二度寝せねば……まだ、身体が重い」
 蹴り出していたシーツをささっと整えると、ぼくは瞼を閉じた。



 商店街は、活気にあふれていた。
「うー、身体が痛いー」
「大丈夫?」
 フォアさんが横で心配してくれる。
「大丈夫ではないですー」
「無理に軍に行く必要ないんじゃ……」
「お兄ちゃんがお弁当のほうが良いって言ってたもん」
「でも……足取り、おぼつかないよ?」
「大丈夫ー」
 足も手も痛いけれど、筋肉痛なだけ。
 アスファルトを蹴りながら、ぼくらは軍の司令部がある道路の一歩前、商店街との境目に出る。
「こっちに来なさい!」
 不意に、女性の金切り声が響いた。
「こっちに早く来なさい!」
 まずトラックが見えた。ブレーキ音が耳朶を打つ。子供が、その線上にとことこと歩いていた。
 だんっと、足が地面を蹴る。
 バックを捨てると、身体が不意に軽く、風になった錯覚を憶える。
 トラックへ向けて跳ぶように駆けながら、まだ3、4歳程度の子を抱え、傷む足に鞭打って歩道へと跳んだ。
 髪が、トラックから生まれた風になびく。
「大丈夫?」
「ああ、ありがとうございます、ああ、もう、ちゃんと謝りなさい、ほら!」
 と言われても、子供はきょとんとして、首をかしげた。
 何が起きたか、まだ理解していないようだった。
「馬鹿野郎! 死にていのか!」
 太い声で、トラックの運転手さんが言ってきた。
「ごめんなさーい」
 とぼくは手を合わせて頭を下げる。
「ったく、こんなところで目離すなよ」
 と悪態をついて、そのまま法定速度を守りながら、軍の施設へ入っていった。
「ありがとう、本当にありがとうございました」
「いえ、無事で良かったです」
 そうして、よくわかってない子供は、手をふる。
「怪我なくて良かったです」
「ええ、ええ、この子には言い含めておきます」
「あまり怒らないであげてくださいね」
 ぼくに頭を下げながら、その親子は商店街へ消えていった。
「ねえ」
 地の底から響いたような声に、びくっとぼくの身体は震えた。
 それもそのはず、フォアさんが睨んでいた。
 あの温厚な人が、とギャップの大きさにぼくはついっと鞄を渡される。
 お兄ちゃんへのお昼が入った弁当もある。
「下手したら、死んでたよね?」
「あ、あの時はつい」
「つい、で死なれて残された人の気持ち、わかる?」
 怒りがにじみ出ていて、ぼくは言葉が紡げない。
「まあ、毎日、何かしてるとは知ってたけど。それでも、やっぱり怒るときは怒らないと、ねえ?」
「えっと、はい、ごめんなさい」
「今まできかないでいたけど、今の動きで確信した。身体、というか能力を鍛えてるんだね」
「え、怒らないんんですか?」
「怒ったところで続けるなら、呆れておく」
「……フォアさん、ありがとう。あと、隠しててごめんなさい」
「シーザライズは、気付いてたみたいだけど。彼にも怒っておかないとね」
「そうなんですか?」
「下手に傭兵なんて仕事してないよ、彼。元軍人でもあったみたいだし。聞いたことないけど」
「どうして、ですか?」
「話したくないんじゃないかな。両親にも疎まれてたんだから、能力のことで」
 それで軍に入った、とフォアさんが教えてくれる。
 前に聞いたことあったような気もするけど。
「さ、良いこともしたし、中央司令部に行こうか、フォークくん」
「うん!」
 ちなみに、渡したお弁当の中身はぐちゃぐちゃになっていたらしく、帰ってきたお兄ちゃんが「何かあったのか!」とすごく心配させてしまった。



「――卒業、できるかな」
 次の日。
 全身が痛みに襲われる中、クッキーと車の中で話をしていた。
「できないとアダマンタイトに殺される」
「いやその程度では殺さないぞ、さすがにリタルの手前、殺されるのはな」
「あんた、リタルってめっちゃ怖がってるのはわかるけど、どんだけのことしてたの、農協に入ってるんだろ?」
「クッキー、農協のお偉いさんだよ」
 がたごと揺れる車の中、アダマンタイトさんは震えた声で告げた。
「近接・遠距離・各武器の使い方。天才だよ、なんでもできる」
「欠点は?」
「農家の一人息子で農業を何よりも愛してたことだな。暗殺者より、農業やりたかった。本人談だ」
「その農業も、才能があった、と」
「最初はけっこう苦労したらしいぜ? でも、のし上がって、その役員になるまで努力した。苦痛に感じたのは、暗殺のほうだったとか」
「そうなんですか?」
「暗殺者の特訓のほうがオレは苦痛だと思うがね。バトルロワイヤル的に、同じような歳のガキたちで殺し合いさせたりとかしてたし」
「漫画の世界だ……」
「ははっ、そう思える奴が、暗殺者に見初められるんだから、世の中わからねえな」
 そうして、車はぎぎっと農家の中で止まる。
 夕焼けが今日は、血の色に見える。
 いつもの、特訓の始まりだ。



 強くなりたい。
 男児なら、一度は誰でも抱く思いだろう。
 だからぼくも、クッキーを敵として認識した瞬間、身体が反応するままに任せる。
「『死から逃げたい亡者よ』」
 祝詞。これは、ぼくのでっち上げ。
「『世界は星のきらめきに満ちあふれている』」
「言わせねえよ!」
 接近戦、木製のナイフをお互いに振り上げながら、ぎっぎっと音を鳴らしていた。
「『さあ、天がお前を待っている。亡くなりし己の妹も、両親も、その涙を枯らした愛を待っている』」
 がっと、拳でクッキーの顎を殴る。
「『さあ、今こそ終わらせよう。還ろう。この大地に汝の居場所はもう失われた』」
 夜空の星は、一体何を思って、怨念という『神』を作ったのだろうか。
 そんなことを考えながら、集中する。
「『お前の願いは果たされずとも、その身を包む愛に気付け』」
 クッキーの足蹴りをジャンプで避けながら、その胸にナイフの切っ先を突きつけた。
「『我は汝の帰りを待つ全てを愛す。キルストゥの名の元に、還れ、亡者たる星の使者よ――コンプリート』」
 とんっと、木製のナイフをクッキーに当てると、彼は尻もちをついた。
「あの、フォーク。反則だと思うんですけどね、それ」
「祝詞で気が散るの?」
「ふつう逆だろ、クシニキル」
 アダマンタイトさんが手を叩き、なぜか腕を回す。
「次の相手は、わかってるか」
「はいっ、クッキーよりも頑張って戦います!」
「え、手抜きされて負けた?」
「あのな、クシニキル。お前は元々戦闘向きじゃないんだ。ま、オレ相手に勝てたら、次はシーザライズ辺りに相手してもらえ」
「リタルさんではなく?」
「あの人は天才だと言ったろ。まず本気でキルストゥとして戦ったら、殺されるぞ」
「え」
「噂でしか聞いたことはないがな。昔は追っ手をその手で殺し尽くしていたそうだ。今は衰えてると信じたいがな」
 と、アダマンタイトさんが言うと、オレも本当は血に飢えてるんだけどなーと言う。
「地下組織一つ、一人で潰したんでしょう」
「あの程度で社会の裏組織名乗ってるほうが悪い」
 きっぱりと言い切った。
「まあ、学費先に払ってくれててそこだけは感謝だな」
「……学費」
「リタルの前に、オレが相手してやる……というか、今の調子じゃ、まだまだあいつには敵わないな」
「そういえば、ぼくそんなにお金ない……」
「学校の学費程度、リタルが出すだろ。ああ見えて、あいつかなり金持ちだからな」
 だてに農協の偉い人じゃないんだぞ、と言われて、ぼくはまばたきを繰り返した。
「今は喜んで農業してるだろうけど、暗殺者やってた頃は事故死に見せた殺し方が得意でたいそう喜ばれたそうだ」
「暗殺者って、大金入るの?」
「クシニキル、真似しようとするなよ? したら世の中のために殺す」
「んなことしませんって! ただ、暗殺なのに事故死って……あ、鋼糸か」
「そう。神々の遺産と共に、それでこう、あっさりと落石起こしたり、スリップ事故起こさせたり。難易度高いぞ、事故死に見せかけるの」
 なんだか、フィクションの世界にいるような話だった。
「でも農業をやりたい。暗殺者Xの最大の願いがそれだったのは、洗脳が不完全だったせいなのか、願い続けていたからなのか。そこまでは誰も、わかりゃしない」
 はぁ、と呟いて、アダマンタイトさんはぼくの目を見た。
「そこまでの思いは、なさそうだな」
「あ、はい……そもそも、キルストゥって力が、信じられなくて……ぼくの力は、『神』様を天に還すためのものなら、どうして殺人になるのだろうか、って」
「平凡だな」
「すみません……」
「いや、褒めてるんだ。中二病ってやつとか、狂ってるならもっと喜ぶと思うのに、平穏を求める。なかなかできるもんじゃない」
 アダマンタイトさんは言うと、空を見上げた。
「力のもちぐされってやつだが、日常を生きてきたんなら、もっともな落とし所だ。だが戦え」
「きついですね」
「力がある者の定めだ。それに、守られてばかりのお坊ちゃんでいたくないから、来てるんだろ?」
「それは……」
「男なら、本当は守りたい女の一人や二人いていいと思うんだがな。クシニキルにも言えるが」
「守りたい、人……ならいます。女の人じゃないですけど」
「なら決まりだ。オレが相手してやる。クシニキルはフォーク帰した後に相手してやるから、走り込みしてろ」
「へーい……」
「やる気がないなら勉強してろ」
 どうやら、アダマンタイトさんはもうぼくに狙いを定めているようだ。
 なら、やるしかない。
「本物の暗殺者の実力、死なない怪我しない程度に身体に叩き込んでやるよっ!」
 めっちゃ嬉しそうな声で、アダマンタイトさんが叫んだ。
 結果なんてもう刹那で。
 口の中に入った土を吐き出しながら、ぼくは痛む身体に鞭打って立ち上がる。
「まだ、です」
「いや、終わりだ。試験勉強に響くと困る」
 はっきり言い切ると、アダマンタイトさんはクッキーを呼んで、いつものごとく、ぼくを家まで送ってくれた。



「むー」
「どうした、フォーク?」
 久しぶりに、お兄ちゃんと二人で食事を取っている。
 もう鳥もお家に帰った夜、ご飯を食べながらぼくは唸っていた。
「お兄ちゃんはさ、勉強好き?」
「え?」
 露骨に嫌な顔をされる。
「あ、受験勉強進んでないんだな。ふふ」
「お兄ちゃんは大学行ったんだっけ」
「ああ。一応。そこでもアイスと一緒だったな。あいつとの腐れ縁は切れたことがない」
 言いながらも、楽しげだった。
「はー」
「フォーク。もう試験近いんだから、あまり遊び回ったらだめだぞ」
「うん」
 あれは遊びと言うにはどうしても納得がいかないが、細かいことなのでぼくは流した。
「クライスとも最近会ってないんだろ? まあ、たまには軍に顔出してやってくれ。なんか調子狂うんだ」
「うん」
 そういえば、クライスくんの顔も見れてない。
 受験勉強と、キルストゥとしての特訓は、順調……と言えるのだろうか。
 そんなことをふと思った。
「……相当疲れてるな、フォーク」
 見抜かれて、ぼくはこくりと頷いた。
「まあ、何してるかは知らないが、程々にな」
「はーい」
「にしても、最近のレジーナは平和だ」
「そうなの?」
「あまり部外者に言うのもあれだが、通信課にいるせいで、事件や事故のことを知ってしまうんだよ」
「へー」
「で、いたずらの犯罪予告とか、不良の集団がどうとか、猫探しとか、嘘みたいにそういう依頼が多くなっててな」
「平和はいいことです」
 お兄ちゃんのやってること、大切だ。
 毎日どこかで殺人事件や強盗事件やひき逃げやら起きてたら、寝る間もないだろう。
「嵐の前の静けさっていう気もしてきてな。杞憂だろうけれど」
「杞憂だと思うけど」
 もしかすると、そういった事件になりそうなことを止めている人がいるのかもしれない。
 ――シーザライズさんとか。
 傭兵さんだから、その可能性は否めない。
 ん? そうなると、傭兵さんは便利屋さんか?
「『神』様の襲撃も、なりをひそめてる。本当に、なにもないと良いんだがな」
「良いことだよ! やっぱり、テレビの効果かな?」
「だろうな。怪しい人もいるみたいだけど、そこは調査入ってるって聞いた」
「強い人多いもんね」
「ああ」
 こんな平穏も、もうじき終わるのだろう。
 ぼくもお兄ちゃんも、別の道を行く。
 だから、この時間を大切にしたい。
「あ、ご飯空いてる」
「じゃあ、よそってもらえるか?」
「うん!」
 お茶碗を手にぼくはささっとご飯をたっぷり盛り付ける。
 お兄ちゃんの知り合いの――皆さんにもしたように。
 やっぱり、軍人さんはちょっと苦手かもしれない。
 暗殺者や傭兵さんは大丈夫なのに、不思議だ。
「フォーク」
「ん?」
 なにか思いつめた顔で、お兄ちゃんと視線を交わす。
「いや、料理学校だっけ? 頑張って入れよ」
「うん!」
 元気よく答えながら、お茶碗を渡す。
 触れた手の温かさに、ぼくは笑顔を浮かべた。



 時間は一気にとぶものだ。
 アダマンタイトさんに、一撃は入れれるようになった頃。
「明日からは体力作りを家の周りでしろ」
 ぽいっと、暗いから見るのが大変だったけど、勉強の小さなお守りが手のひらにおさまった。
「あの、これって」
「フォーク。受かるように、だ。どこかは知らんがリタルからの餞別だ、受け取れ」
「えっと、ありがとうございます!」
「クシニキルはここにいるから、会いたくなったらいつでもこい」
「えっと、肝心の本人はどちらに?」
 アダマンタイトさんは、目を細めると、そうだな……と遠い目をした。
「農業は過酷だ。たまにテレビの取材も来る」
 ちょっと意味がわからないけれども、きっとクッキーも訓練してるのだろう。
 遠くから、何か聞こえてきた。
「お、腹筋背筋走り込み時間内に終わったか。目出度いな」
「はぁ、はぁ、今日で、フォークとここで訓練するの最後なんですよね! ならどうしてのけ者にしようとしたんですか!」
 納得いかない、という目に、アダマンタイトさんはふわりとした笑みを浮かべた。
「気まぐれ」
「殺す!」
 だんっとクッキーは素手でアダマンタイトさんへ肉薄する。
 のを軽いステップでかわすと、アダマンタイトさんは反転した。
「遅い。リタルなら鋼糸で一発で殺したぞ」
「もうそういう世界にいたくないんですが」
「オレはいたい」
「がー!!」
 クッキーが叫ぶと、アダマンタイトさんはくすくすと笑った。
「できないことを課したわけじゃないってわかっただろ?」
「ぎりぎりでしょう! ったく、鬼め」
「クッキー……また、学校で会おうね」
「ああ。フォークも、死ぬなよ」
「死なないよー」
 と、拳の甲で叩きあう。
「頑張るよ、もっと強い料理人になってみせるから!」
「わかってるさ、おれだって、立派な農家の人になっておくからな!」
 にっこりと笑い合って、共に過ごした日々に思いを馳せる。
 それを、アダマンタイトさんは目を細めて見つめてくれていた。



「というわけで、試験無事に受けられました」
 ぜんっぜん意味がわからない問題が、たくさんありました。
 なんて正直に言えないので、ぼくはうつむいた。
 まるで地獄に落ちたかのような錯覚を覚えて、頭が何故か痛くなってきました。
 ……しょうがないじゃない! わからない問題多いんだもん!
「うう、フォアさん、受けれただけでも立派ですよね?」
「よっぽど悪かったんだね……だ、大丈夫、命まで取られないよ」
 う、うん、そうだよね、とぼくも頷くけれども震えが止まらない。
 あれ、今日はいつもより寒いぞ、とぼくは校舎を見た。
 家からはちょっと遠いけれども、専門学校としては立派な建物だ。
「でもさ、リタルさんに推薦状書いてもらったらよかったのに」
「何故かみんなそういうのですが、実力で入らないと、その、格好つけたいの!」
 おいしいって言われると嬉しい。
 だからぼくは、努力して頑張ったのです。
 頑張ったのですが、報われない努力は徒労と同じなのです。
 うう、数式も国語も全然わからないよう。
「みんなに申し訳ない……」
「ちゃんと試験に挑もうって考えをもてたことは、誇っていいと思うよ」
 その声は、大海を見たようだった。
 海なんて、テレビでしか見たことないけど。
「結果は大事だけど、それよりもっと大事なのは、挑戦することだと思うな。誰でも失敗の上に、成功を掴むんだもん」
 勉強も同じだよ、とフォアさんに告げられる。
「そうかな……」
「うん! それじゃあ、報告に行くんでしょう? 家に一度帰らないと。ツキさん待ってるよ」
「そうだった! お兄ちゃん仕事休んでくれたんだもん。挨拶に行かないとね、お母さんとお父さんに」
 早足になっていく。
 フォアさんも歩調を合わせてくれたから、ぼくは嬉しくて、最後は走っていた。
 ふと、着物姿の人とすれ違う。
 ――?
 黄色の姿に違和感を覚えたけれども、それよりもフォアさんを置いてけぼりにしてしまったので、待つことにした。
 いつの間にか、ずいぶん身体も筋肉ついたなぁと思った。



「はぁー。どうか試験受かってますようにー」
 日が高い位置にある。
 共同墓地までの道を、お兄ちゃんと二人、そして誰かがついてきてる。
 ……ちらちら姿が見えるので、害はなさそうだし、お兄ちゃんも気付いていると思うので、特に気にしないことにする。
 だんだん、建物がなくなっていき、代わりに木々の緑が満ちていく。
「お疲れだな、フォーク」
「こうしてお兄ちゃんと話すのも、久しぶりな気がする」
「そうだな。ほい、これ」
 と、お兄ちゃんはお花を入れていたバッグから、赤い矢印を取り出した。
「え、ベック―?」
「そうだ。昨日帰り際に寄ってきたから、とりあえず連れてきてみた」
「全然気付かなかった……」
「そりゃあそうだろうな。もうフォーク寝てたし」
「うぅー、もうちょっと待っておくんだった」
「朝も気付かなかったろ」
「そう言えば、そうだ」
「な?」
 にっこりと笑われて、ぼくはやっぱりお兄ちゃんには敵わないなあとなんだか、嬉しくなった。
「さ、そろそろつくな」
「うん」
 門が開かれているその中に、ぼくらは入っていく。
 誰のものかわからないお墓が、規則正しく並んでいる。
 それを見ると、胸が痛む。
「こっちだったな」
「うん」
 石で舗装された道を歩きながら、気配もついてきているのを感じる。
 後でお兄ちゃんに訊いたらわかるかな?
「しかし、フォアさんたち来てもらわなくてよかったの?」
「用事があるから、他の人に護衛を任せてるってさ」
 あの気配のことかな、と勝手に想像した。
「水持ってきてるし、お供え物もある。季節外れだけどな」
 お兄ちゃんが言うと、立ち止まる。
 周囲とは明らかに違う大きさの石の前に立つ。
「……お墓、作れなくてごめんなさい」
「フォーク……」
 お父さんも、お母さんも、親族と言える人がいなかった。
 だから、ぼくらはクルアさんたちと相談して、共同墓地に入れると決めた。
 お金は幸い、クルアさんたちが引き受けると言ってくれた。
 値段を覗き見したけど……お金持ちはすごいと思った。
「さ、早く終わらせよう、フォークも疲れただろ? 帰りは外食でもしていこう」
 ぴょこぴょこ跳ねるベック―に急かされて、そうだね、と答える。
 瞬間、背筋に悪寒が走った。
 何か言う前に、お兄ちゃんを突き飛ばす。
「へぇ……楽な仕事かと思ったけど、案外やりごたえはありそうで嬉しいよ」
 いつからいたのだろうか。
 気配なんて感じなかった。
「キルストゥ様!」
 ナイフが、墓石を削っていた。
 銃弾だったら、確実に仕留められていたかもしれない。
 ぞっとする。
「おやおや、お嬢さん、邪魔するもんじゃないよ」
「キルストゥ様に不敬を働く輩を排除するためなら、わたしは遠慮いたしません」
 きりっとした少女の言葉に、現れたのは大の男の人だった。
「やれやれ――いろいろ下調べして今日という日を選んだが、間違えたかね」
 つば付き帽子が似合う、ヒゲを顎に生やした人だった。
「暗殺者にして社会の裏では賞金首のエドワール。暗殺者Xに敵わなずとも、数多の人間を殺してきた方で間違いはないですね?」
「嬢ちゃん、素直に答えてもいいことはないんだよ」
 言いながら、彼は銃を取り出す。
 女の子は、きりっとした目で、ぼくらとの間に入った。
「捕らえます――!」
「できるかい?」
 そのやり取りの続きを見るのは、お兄ちゃんによって遮られた。
 大きな墓石の裏に引っ張られる。
 いつの間に、お兄ちゃんは起き上がってたんだろう。
 金属がぶつかり合う音がする。
 それに不安を覚えながら、お兄ちゃんが腕をさすっていた。
「いやー、フォークいつの間に鍛えたんだ?」
「えっと、試験勉強の合間に」
 嘘をつく罪悪感を抱きながらも、ぼくは本当のことが言えなかった。
「まったく、驚いたぞ」
「ごめんなさい……」
「でも、助かった。けっこう力ついたんだな。偉い偉い」
 墓石の前では、女の子が戦ってくれているのに、ぼくらはこうして隠れてていいのだろうか。
 だが、ぼくは武器になるものは持っていない。
 木のナイフも家にある。
「誰に頼まれたのです?」
「答えるとでも?」
 男の人と、女の子の戦いは互角なのか、こっちへ来ることはない。
「フォーク、しばらくここから動くな。男は銃持ってたからな」
「うん……」
 でも、なぜ賞金首が襲ってきたんだろう?
「『神』になりたいのなら、今すぐそこで死になさいっ!」
 物騒な言葉が飛ぶ。
「いや、人として殺すほうが楽しいんだよ、特に女子供を犯すのがね」
 最低、と呟きながら、銃声が響く。
「人が来ますよ」
「構わないさ。殺せばいいだけだ」
「暗殺者とは思えない台詞ですね」
「今は殺したくてうずうずしてんでね」
 別世界の単語を耳にしながら、ふつふつと怒りが湧き上がってくる。
 ふと、墓石に敷かれている小石が目に入った。
 そういえば、アダマンタイトさんが言ってたっけ。
 どんなものでも、使いようによっては武器になる、と。
「フォーク」
 ぎゅっと、考えをお兄ちゃんに見抜かれたのか、と一瞬心臓が跳ねた。
「大丈夫うだからな。絶対に」
 そう言うと、お兄ちゃんの手にも小石が握られていた。
 戦況はわからない。
「手伝って欲しい。互いに、反対側に石を投げる。たぶん、その瞬間に隙ができる」
「そこを、女の子が叩いてほしい――ってことだよね」
「ああ」
 危険な賭けでもあった。
「銃の範囲外に逃げるのは難しい」
 近くで、金属音が絶え間なく続いていることから、理解できた。
「ん」
 くいくい、と袖をベック―が引っ張った。
「いや、ベック―銃弾当たったら危ないだろ」
 だが、彼? は問題ないと言いたげに、胸を張った。
 なら、やることは決まった。
「ぼくがベック―をあっちに投げる。お兄ちゃんは、逆方向だね」
「ああ。どうか、陽動にはなるように祈ろう」
 お互いに顔を見て、こくりと頷いた。
 本当なら、こんなことにならないのが一番だったのに、という思いはある。
 でも、戦って、守ってくれてる人がいる。
 なら、成すべきことなんて決まってる。
 怖いけど、やらなくちゃ。
「ベック―、穴が空いたらごめんね」
 気にすんな、と言われた気がして、ぼくは微笑を浮かべた。
「「さあ、投げるぞ!」」
 小声がハモると、勢いよくぼくはベック―を墓石の外へ出るよう投げた。
 こんっと、お兄ちゃんのほうも音がした。
 沈黙を破る発砲音と、男の悲鳴が聞こえた。
 成功した――?
 結果がわからない。
 だが。
 お兄ちゃんが、とっさにぼくの身体を引き寄せ、倒れる。
 いや、伏せた。
「音で撹乱させようとしたのは、間違いじゃなかった」
 幽鬼のような男の声がする。
 瞬間、ぼくは――いや、アダマンタイトさんに鍛えられた身体が動いた。
 どうして、こんなことをしているのか、ぼく自身、理解できなかった。
 ぼくより身長の高いお兄ちゃんを引き離す。
 数秒のロス。
 賞金首の男の目が、ぼくを捉える。
 素手でも、戦える。
 クッキーとの特訓を思い出す。
 身体を低く、けれども足の健が切れそうなほど力を込めて、肉薄する。
 男の動揺する姿など、気にせずに。
 ぼくは勢いを殺さず、股間に頭突きした。
「――っ!」
 殺意が形を持つ。
 その中、男を押し倒す。
 前より、ぼくの身体は大きくなっている。
 急所へ狙った行為は、予想以上に効いたようだった。
 すぐ銃を持つ右手を掴み、無理矢理空へ標準を定める。
 そして、発砲。
 まるで学校の徒競走の発信源みたいな音が立った。
 そして、男に思いっきり殴られる。
 墓石にぶつかり、意識が一瞬飛ぶ。
 立ち上がっったのか、男が向かってくる足音が響く。
 ぼくにも、できた。
 けして褒められるようなことじゃないけれど。
 後悔、はいっぱいあるなぁ。
 せっかく試験受けたのに、死んじゃったらそれでお終い。
 でも、なぜか爽快感があった。
 これなら、殺されても『神』にはならないと思う。
「そこまで」
 薄く開いた目には、膝から崩れ落ちる男の人の姿が見えた。
 そしてそのまま、ぼくはなんだか、終わったのかどうかもわからない内に、意識が落ちた。



「フォーク、フォーク、フォーク!」
 もう陽が暮れてきて、夕日が鮮やかな紅色を室内に持ち込んでいる。
「フォーク様」
「フォークくん」
 天井は赤い。
 それを見上げていると、何度もみんな名を呼ぶ。
 別に記憶は失ってないんだけどね。
「あ……あり、がとうございます」
「んー、頭打ってたから検査したけど、結果は良好。怪我もたいしたことなさそうね」
 聞いたことのない女性の声がした。
「ウル様、申し訳ありません」
「いや、あんたしかつけなかったこっちの落ち度。責任はこっちが取るわ」
 会話の内容はよくわからなかった。
「シーザライズからのちゃんとした依頼を全うできなかった。責任は上司が取るものよ」
「でも……」
「じゃあこう言えばいい? キルストゥの兄弟は、あなたに守られて助かり、犯罪者は軍人によって捕らえた」
 凛とした声だった。
「軍のお手柄で、何一つ失うことはなかった、と。現場にいなかったこっちの責任もあるんだから、気にしないの」
「……はい」
 しぶしぶ、という感じだったけれども、女の子は納得したようだった。
「さあて、事情聴取といきましょうか。あ、この矢印の玩具、心配してたわよ、フォーク・キルアウェートくん?」
「えっと……」
「ウルよ。まあ、今回のお目付け役を頼まれた軍人」
「軍の人?」
「嫌ってもいいけど、まあ、今は水に流しましょう」
 くすりと、ウルさんは妖艶に笑う。
「無茶はしないよう、教えられてたと思うのだけれど?」
「なにもできないのは、嫌、です」
「男の子ね。でも、軍人でもない一般市民が、不意とはいえ一発入れたんだから、褒めてあげる」
「手こずったわたしのせいです。本当に、申し訳ありません」
「ここは結果オーライでいけたらいいんだけど……どうかしら?」
「……あの人、どうなるんですか?」
「知らないほうがいいけど、刑務所で一生過ごすでしょうね」
「……そっか」
 これで、本当に安心した。
「一日入院決定だからね」
「はい」
「ぼくもついてていいかな?」
 いつの間にか、家で分かれたフォアさんがいた。
「いいわよ。そのために連れてきたようなところもあるからね」
 なんでも、入り口でフォアさんが揉めたそうだ。
「ここ、軍の病院なんですか?」
 そのことに驚きだった。
「キルストゥの安全のためにも、すぐに守れるほうが良いと思ってね。嫌でもいさせるから」
「……嫌じゃ、ないです」
 それを聞いて、くすりと笑われる。
「なんですか」
「いえ、仲がいいことは、いいなってね。それじゃあ、そろそろお邪魔だから、出るわ。後はよろしく、タチアナ」
「はい、ウル様」
 礼儀よく答えた女の子は、去っていく軍人さんを見送っていた。
「フォークくん、どうしてここにいるか、は覚えていなさそうだね」
「フォアさん……は、どうして、ここに? 軍内部じゃないですか」
「家でくつろいでたら電話が来たから、とんできたんだ!」
「そうだったんだ」
「あの、失礼ですが、あなたはキルストゥ様とはどんなご縁の方ですか?」
 タチアナと呼ばれた女の子が、目を細めて問う。
「自己紹介が遅れましたね。ぼくはフォア。異世界の魂で、フォークくんたちを助けるためにやってきた来訪者だよ」
「……嘘を言ってるわけではないみたいですね」
 こほん、と一息つくと、二人以外は目を丸くした。
 注目された女の子は、頬を染めて照れ隠しをするように言葉を紡いだ。
「魔――『神』が実在しているんです。それに、異質な気配を感じてました。キルストゥ様方の味方なのは、見ていればわかりましたし」
 ぷい、と彼女は外を見る。
 なんだか、歳相応の態度に、ぼくはちょっと安心した。
「あの、怪我とかしてませんか?」
「お気遣い、感謝します。ですが怪我はしておりません。――無茶は、フォーク様のほうです」
 ずいっとベッドに押し寄せて、顔がはっきり見える。
 え、誰も止めないの?
 すごく綺麗な瞳と、険しい表情に、肝が冷える思いをした。
「ツキ様もですが、あのまま戦っていても人を呼ぶ者がいておかしくないと判断して、わたしは防戦していたんです」
「えっと、見えなかったし……」
「ウル様から無線機は貰っていましたし、ツキ様はご存知ですが、軍人が後始末をしました。それが、この国で正しいやり方です」
「あー、それはフォークだけを責めないでくれ」
「ツキ様も、軍人としても通信課の身。その御身は貴重なのですから、慣れないことなどしないでください」
 きっぱりと叱られる。
 この子、けっこうすごいなーとぼくは他人事のように思っていた。
 ら、ほっぺたをつねられた。
「まだキルストゥ様は未熟なのです。戦いはプロがやること。だからこその護衛です」
「でも失敗したじゃないかー」
「時間を稼いでいたんです!」
「まあまあ、フォークもタチアナさんも、落ち着いて。もう過ぎたことなんだから」
「相手が『神』じゃなくてよかったよー」
 と、蚊帳の外だったフォアさんが微笑する。
「キルストゥが揃っていたとはいえ、『神』相手だったらタチアナさんもきつかったでしょう?」
「腕を試された? とでも言いたげですね」
「そうだと思うよー。というと、相手も何か、今日キルアウェート兄弟が墓参りすることを知ってる相手だってことだね」
「……あまり考えたくないが、通信課に、内通者でもいるんだろうか……」
 お兄ちゃんが、つうっとベッドを人差し指でなぞる。
「そうだとしても、お兄ちゃんが悪いわけじゃないよ」
「フォーク様の学校にいらっしゃったのかもしれません」
「もしくは、そういうことをわかる能力の持ち主って線もあるよ」
 視線がフォアさんに、一気に集まる。
「神々の遺産ってあるじゃない? あれならそういうこともできる物がある可能性はある」
「クルアさんが集めてるやつだな」
「魔――『神』の成れの果て。だいたい埋葬するものだけれども、集めてる? 死者への冒涜ね」
「あまりそう言わないであげてよ。それでぼくらは助けられてるんだから」
「……そういうことに、しておきましょう」
 あまり納得してない表情で、タチアナさんは嘆息した。
 すると同時に、食事を告げるノックの音がした。
「病院食は断った。適当にパン買ってきたから、早いもん勝ちな」
 なんていうのは、軍に依頼してタチアナさんを後につけていたシーザライズさんだった。



 静かな夜。
 皆がそれぞれ、寝静まった月が欠けた夜。
 お兄ちゃんの顔が一番近くて、タチアナさんは病室の外で監視をしているという。
 フォアさんも、ぼくの寝ているベッドの足元の壁に腰掛けて寝ている。
 だから、自然とシーザライズさんが、ぼくを見下ろしている。
「あの……ぼくの勘違いだったら、ごめんなさい」
「何だ?」
「賞金稼ぎ――いえ、暗殺者を差し向けたの、シーザライズさんじゃないかなって」
 変なことだと思った。
「……どうして、そう思う?」
「いつも守ってくれたから。でも、ぼくを見る時、いつも違うものを見てる気がしたの」
「女の勘ならぬ、男の勘か?」
 真摯な目だった。
「もし、そうだったら。お前は、俺を軽蔑するか?」
「ううん。試したのかなって」
 ぼくたちに宿る、キルストゥ一族の力を。
「レリアはさ、お前たちと違って、守れるのは俺しかいなかった」
「……ぼくに、似てる女の子だったんだっけ」
「守れると思った。でも、それはただの錯覚で。さっさと、国を出ていれば、こんなことにはならなかった」
 こんなこと――キルストゥが賞金首になるということだろう。
「今日のは偶然だ。俺はちょっと調べ物のために、お前らについてあげられなかったし、フォアとも離れるわけにはいかないほど遠いところ行ってた」
 こほん、と息を吐いて、シーザライズさんは髪をいじりながら顔を上げた。
「なんとか、しようと思ったんだがな。東の小国の関係で、ちょっと悪い噂を聞いた。だが、フォアはお前と離れることはしたくない」
「……うん」
「フォアは、フォークを助けたいと思ってるから。無茶は、あまりしないでくれると助かる」
「でも、ぼくは鍛えてます」
「それでこのざまだ。守られるのが嫌なら――鍛えているというのなら――鍛えさせてもらってるなら、もっと真剣にやるんだ」
「え?」
 不意に、鞘におさまった、手のひらにおさまるような小さなナイフがぼくの目の前に現れた。
「キルストゥの赤、破滅や破壊を司る力がお前にあるんだ。兄にはそれはない」
「なら……」
「わかったか? 俺が送れる唯一のお守りだ。ナイフの刃に血を混ぜれば『神』も殺せる。祝詞は忘れるなよ?」
「シーザライズさん……?」
 まるで、お別れするみたいな言い方だった。
「お前は、レリアに瓜二つなんだ。正直、一緒にいて、嬉しいと同時に、辛い」
「――す」
「謝るな。フォークのせいじゃなくて、俺が割り切れないだけだ。犯罪者でもあるからな、俺は」
 一人の少女を守るために、多くを死に至らしめた青年。
 そうか、シーザライズさんも。
「賞金首、なんですか?」
「あまり知られてはないがな。そうだ――」
 苦笑から、微笑へ移った表情を見て、僕は息を飲んだ。
「試験、お疲れさま」
 言い足りないけどな、と、その目が語っていた。
「フォーク、お前が人――『神』を殺す瞬間を、フォアは見たくないだろう。だから、リタルについていけ」
「……え?」
「試験、きつかっただろ? もしも、落ちたらなんとしてでもリタルに暗殺術を教えてもらえ」
「でも、それは……」
「あいつの側なら、『神』相手でも生きていられる。まあ、フォアが寂しがるだろうが……」
「シーザライズさんは?」
「ツキを守ってみせるさ」
 だから安心しろ、と彼は淋しげなほほ笑みを浮かべた。
「だが、絶対とは言えない」
「どうして、ですか?」
「俺にも守ってやらんとならん馬鹿ができてしまった。……だから、さ」
 淋しげな瞳は、揺れていた。
「まあ、なるべく大勢の中にいるように、と神々の遺産をクルアから譲ってもらえるよう交渉しとけと言っておいてくれ」
「え?」
「軍の仕事中は安全だが、外は危険かもしれん。まあ、キルストゥのお嬢さんが控えてるから、安心ではあるが」
「うん、そうだね」
「ああ。実力はわからんが、悲観することはないとわかった」
 こうして、ぼくたちが生きてるから、だろう。
「しばらく会えないだろうが、元気でな、フォーク。ツキにも、よろしく。フォアには、代わりに謝っておいてくれ。まあ、商店街にはいるから、決して会えないってわけじゃないけどな」
「うん、わかった! って、今言っても……」
「また会えたら、このことは忘れてくれよ?」
 くすりと笑みをこぼすと、シーザライズさんは笑って、部屋のドアに手をかけて。
「ああ、あと一つだけ。生きててくれて、ありがとうな」
 ぽかんとしたぼくなど気にもせず。
 シーザライズさんは、出ていってしまった。
 誰に向けていったのか、理解ができなかった。
「ぼくじゃない……よね」
 考えても、ドツボにハマるだけ。
 だから、考えるのをやめて、ぼくは目を閉じた。
 ぺと、と頬に、ベック―の冷たい手が当たるのを感じながら――。



 空は快晴。
 風は涼しく、頬を撫でる。
 そして、不信感を強めた鋭い、人を殺せそうな目で、アダマンタイトさんはぼくを見てた。
 クッキーが不安げに、隣に立ってお昼時のぼくの家の前にいた。
 そして、お兄ちゃんや、フォアさんも。
 シーザライズさんは、来なかった。けど、商店街にいるんだと、なんとなく思った。
 病院での会話を覚えているから。
「皆さん、今までお世話になりました。今回は受験に失敗しちゃったけど、今度は頑張ります!」
「予備校に行ったほうがいいと思うんだが……」
 とは、クッキーの言。
「それじゃあ間に合わないかもしれないからね!」
「フォーク、元気でな。その、リタルさん、クルアさん、弟のこと、お願いします」
 お兄ちゃんが車の中を覗き込むと、運転席にリタルさん、助手席にクルアさんが乗っていて。
「任せとけ。まあ、『神』どころか人も来ないから、集中はできる場所だ」
「すみません、お伝えできなくて。一応、隠れ家なもので」
 本当なら、ぼくたちは離れるべきではない、と言われている。
 キルストゥとして、だけでなく、守るためには、一緒のほうがいい、と。
 だが反対に、二人共一緒にいたらもしもの時助けられなくなる、ともいわれた。
 気を遣うと、襲われる確率が高いから。
 そしてもう一つ。
「フォークくんの、覚醒のために、私が一肌脱ぎます」
 と、リタルさんが二度目になる宣言をした。
 本物の暗殺者の言葉に、ぼくたちは否定する言葉はない。
「相手をなめてました。それが、あの時の敗因です。ですが、フォークくんが覚醒すれば、『神』やキルストゥを狙う者を恐れることはないでしょう」
「ま、相手によりけりだが、リタルが言うんだ、信じてくれ」
 と、はっきり彼に助けられた人の言だから信用できる。
「ベック―も、またね。受験とか終わったら、帰ってくるから!」
 と、クッキーの頭に乗っかった赤い矢印に宣言する。
 おう、わかったぜ、とベックーは手を伸ばした。
「なにかあったら、無線で連絡しますね」
「うん、家のことはぼくが管理しておくよ」
 と、フォアさんが淋しげに笑った。
「死なないでね」
「生きて戻ります……って、勉強のためだよ!」
「おーい、フォーク―!」
 と。
「クライス? 道は走るもんじゃないし、遅いぞ」
「荷物も入れたし、もう後は」
「これ! 無線! なにかあったら、夜に連絡くれ!」
 肩で息をしながら、クライスくんは金髪を揺らしながら告げた。
「何かあったのか? こんなに遅く来て」
 お兄ちゃんが不思議そうに首を傾げた。
「唐突な連絡だったから、はぁ、お祝い用意してたのに無駄になっちまったから、代わりにちょっと、な」
「まさかこの無線って……」
「通信課特製の、やつを、貰ってきた」
「おい」
 お兄ちゃんの顔が青くなる。
「給料で金は払うし、おれの持ってるやつ以外で通信できない仕様にしてもらったから、大丈夫だ」
「電話みたいなもの?」
 ぼくの問いに、クライスくんはこくこくと頷いた。
「どこ行くか知らないけど、フォークと、別れるなら、絶対連絡手段持っておきたかったんだ」
「……持っておいてください、フォークくん」
 リタルさんが、真剣な目で無線機を見た。
「大丈夫ですから。信頼できる方のものなら、持っていっても問題ありません」
「まあ、ベルドルード専用の電話と思って問題はないな」
「リタルさん……クルアさん……はい! ありがとう、クライスくん」
「いや、試験勉強しに行くんだろ? みんなにも伝えておくから、さ」
 そこで、歯切れ悪くクライスくんは頭をかいた。
「応援してるから。また、帰ってこいよ、フォーク」
「うん!」
 こつ、と握りこぶしをぶつけ合う。
「この拳に誓って!」
「ああ!」
 思えば、お兄ちゃんが軍に入ってから、いろんなことがあった。
 多くの人と知り合えました。
 けれども、これからは――守ってもらうだけじゃなくて、この身体に刻まれた使命のためにも、頑張らないとならない、そう思うのです。
「フォークくん、そろそろ行きますよ」
「うんっ!」
 多くの人に見守られて、今、初めて家を出ます。
 どこに行くか。わかりません。
 車の後部座席に座り込んで、開いた窓から手を出します。
「お兄ちゃん、またね」
 そう、帰ってくるから。
 泣きそうな表情にさせてしまっているのは、心苦しいのだけれども。
 けれども、ぼくは行かねばならないのです。
 もっと強くなって、料理もできて、自分の身も守れる男に。
 身体もだいぶ大きくなってきて――成長期が遅かったのかな?――もっと見違えるようになって。
 お兄ちゃんや、みんなに迷惑を掛けるどころか、守れるように。
「行ってきます!」
 家に。みんなに、お兄ちゃんやクライスくんたちにそして、レジーナという都市から。
 ぼくは、胸の内で必ず帰ってくることを誓って。
 ――新しい一歩を、踏み出すのだ!
 眩しい太陽とどこまでも青い空に、照らされながら。
 クライスくんがくれた無線機を大事に掴んで。
 ――ぼくは、まるで導くかのような一羽の鳥を見て、ああ、と理解する。
 がたごと走る車内で、一言だけ、呟く。
「行ってきます」
 おかえりと言われるように、願いを込めながら。